【対処法】僕が一生背負っていかなければならない「愛着障害」についてお話しします

【対処法】僕が一生背負っていかなければならない「愛着障害」についてお話しします

レイジです。

皆さんは愛着障害という言葉をご存知でしょうか。

このブログにたどり着いた方の半数以上は、自覚はせずとも持っていることかと思われます。

愛着障害というのは、端的に言ってしまえば「愛を知らずに育ってしまった人間」です。

愛着障害(あいちゃくしょうがい)は、乳幼児期の虐待ネグレクトにより、保護者との安定した愛着が絶たれたことで引き起こされる障害をいう[1]。「甘える」や「誰かを信頼する」などの経験値が極端に低いため、自分に向けられる愛情や好意に対しての応答が、怒りや無関心となってしまう状態[2]

wikipedia

愛着障害とは乳幼児期に保護者との安定した愛着を築けなかったことで引き起こされる障害です。例えば赤ちゃんはお腹が空いたり、おむつが濡れると泣いて知らせます。

しかし、長期に渡ってその欲求が満たされないと人を信じることを諦めてしまうなどの社会的関係性の障害を残すこととなるのです。

その症状として、子どもの場合は人間関係・コミュニケーションの苦手さ、衝動性や破壊的な行動、自尊心や尊敬心などの欠如がみられます。この問題を抱えたまま大人になってしまった方々の生き辛さは想像を絶します。

東京メンタルヘルス

この愛着障害なんですが、個人的には発達障害より圧倒的に辛いと思っています。

今回は、僕が愛着障害になった経緯や、これとどう向き合っていくつもりなのかについてお話ししていきます。もしかしたら、僕と同じような境遇の方の新たな発見や成長になるかもしれません。

親の存在

僕の活動は両親にも知られており「ブログ内で親のことは話すな」と言われているのですが、申し訳ないですが束縛はほどほどに解かせていただきます。

愛着障害で必ずと言って良いほど絡んでくるのは親の存在です。

現に、僕も自分の親の影響により愛着障害になったと思っています。

つまるところ、親から愛情をもらえなかったわけですが、具体的にどう貰えなかったのかを話していきます。

まず、僕は家族間で仲介役を担っていました。

仲介役というのは、言ってしまえば親のご機嫌取りの役です。

僕の両親はどちらも人格に問題があり、母親はヒステリックで頭が悪く、父親は頭は回るが感情的になった時の反動が大きいということがありました。

父親が怒ることは滅多にないので特に問題はないのですが、問題は母親です。というのも、愛着障害というのは母親の愛情不足であることがほとんどだからです。

僕は小さい頃、それこそ小学生やそこらの時から、親からの罵倒や暴力を受けて生活してきました。甘えなど許されず、かといって誉められることもなく、学校ではうまく馴染めず、ひたすら孤独な道を歩んできました。

こんなことを言うと僕の母親は「しっかりと面倒を見てたし、愛情も与えていただろ!」と言いそうなものではありますが、本人がその気になっていただけだった、と言う話です。愛は人に伝わらなければ功をなさないのです。

母親がヒステリックで、それの対処を父親ができないような家庭であったため、家庭内で長男にあたる僕が母親の機嫌取りを任されていました。

「なぜそんな機嫌取りなどするのか」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、それは先ほど述べた罵倒や暴力が原因となります。誰だって、痛い思いをするのはごめんだからです。

僕の母親は、僕のちょっとした発言、例えばずっと家にいる母親を見て「女の人って仕事しなくて良いの?」と言う純粋な知的好奇心で聞いた僕に対して、いきなり「はぁ!?死ね!」という罵倒を浴びせてきます。これを見ている母親本人は絶対に「そんなこと言ってない」と言って信じないとは思いますが、マジです。

また、僕がご飯を食べるのに時間がかかっている様子を見て「そんなにまずいか?まずいならはっきり言えよ!」と急に怒鳴ってきます。当時小学一年生の僕はテレビに夢中になっていただけなので、必死に「そんなつもりはなかった」と弁明しました。

この時もっと機嫌が悪いと殴られることもあったため、少なくとも、小学一年生の時点で「親に気を遣うこと」を覚える必要があったのです。

僕が親に怒られた記憶で最も古いものは皿洗いの記憶です。

当時保育園児だった僕は、母親が留守だった間に、母親の家事の負担を減らし、喜んでもらおうと皿洗いをしていました。

子供ながら、時間をかけて一生懸命磨いて、母親が喜ぶ顔がとても楽しみでした。

皿洗いを途中まで終えたところで、母親が帰ってきます。

この時の自分の高揚感は、いまだに覚えています。きっと「ありがとう!」と言ってもらえるんだろうな、と。

しかし、実際に帰ってきた言葉はそんな優しい言葉ではありませんでした。

「はぁ!?何やってんの!?洗剤が無駄になっただろうが!ふざけんな!」と。

自分が怒りを露わにしている母親に戸惑っていると、母親は「もういいから!あっちいけ!」と僕を一蹴し、軽く跳ね飛ばされました。

これが、僕にとっては非常にショックでした。そうでもなきゃ、こんな古い記憶鮮明に覚えていません。

これ以降、自分は他人に「何かをしてあげる」ことが難しくなりました。自分が良かれと思ったことでこんなに怒られたのですから、当然です。

そのため、自分には「プレゼント」と言う概念も無くなりました。誕生日プレゼント、クリスマスプレゼント、だって、そんなことして怒られたらどうするんだと。もうあんなに辛い思いはしたくない、と。

その後、母親から「他の家の子供はしっかりしてるのに、レイジは母の日にプレゼントすらくれないんだね」みたいなことを言われた時も、ひどく困惑しました。だって、プレゼントをしたらあんたは怒るじゃないか、と。傷つくくらいだったら、献身なんて行為は僕には要りませんでした。

一方父親は、そんなことには目もくれずに「自分で考えろ」と言うタイプでした。そもそも、今では歳のせいかましにはなっていますが、僕は幼少期、母親と同等かそれ以上に父親を恐れていました。

なぜかというと、幼少期の父親はひとたび怒れば暴れ回るタイプで、家の壁のあちらこちらには穴が空いていましたし、その「暴力の行使」の影響は子供である僕にも及んでいたからです。

こちらは過程の記憶がないのですが、洗面台の近くで丸まっているところを、父親に蹴られていた記憶があります。頭を押さえて「ごめんなさい」と叫び続けながらひたすら耐えていた記憶があります。

書いていて思い出したのですが、父親に「なぜ朝からゲームをやってはいけないの?」と言ったことがきっかけだった気もします。おそらく、辛い記憶なので脳がチグハグになっているんだと思います。理由を聞いても「黙れ」の一点張りで、子供ながらかなり理不尽だなぁと思った記憶があるんですが…

個人的に父親の記憶で一番辛かったのが、僕が布団にくるまり、潜って寝ているところを強引に押さえてきて「苦しい!怖い!」と泣き叫んでいる様子を楽しんでいたのが…怒ったら怖い、人をいじめるのが好き、怖い人なんだなと言うイメージが加速されました。

他にも色々とありますが、このような体験がきっかけで、僕は幼少期から「親という存在は信用できない」というイメージ付けをしていたのだと思います。

僕は実家にいた19年の間、両親から傷つけられることを恐れていました。

また、自分はおそらく発達障害を持っているため、いじめられやすく、学校でも居場所はありませんでした。学校にも家にも居場所はなく、ゲームの世界に逃避する。そのような生活を、初めてゲームを与えられた時からずっとしていました。(途中でアニメにハマったりもありましたが)

こんなことを言うのもなんですが、正直な話、一度親を殺してみようかなと思ったこともありました。(勿論こんな話リアルでは絶対に言いません)

そうすれば、この家は自分のものになって、自分を脅かす人はいなくなり、安心した生活ができる。家の中で、本当の意味でリラックスできる。

そもそもの話、生まれたばかりの弟を叩いている母親を見たことがあります。そのため、自分が意識していないとこでも暴力を振るわれ、愛着障害を引き起こしているのかもしれません。愛着障害は、乳児期の影響も大きいらしいので…

僕は一度、住み込みの仕事が上手くいかずに辞めてしまい、実家に戻ってきたことがあります。

この時、僕は人生で一番と言っていいくらいメンタルがボロボロでした。悲しい気持ちが常に心のどこかにあり、ずっと泣いていました。死にたいとも思っていました。

そんな時に家族から「大変だったね」と受け入れてもらいたかったのです。そう言ってもらえれば、元気になれると思ったのです。

でも、実際帰ってみると「なんで辞めてきた」「これから先どうするんだ」「家に住むんなら家賃を支払え」と言う、僕の気持ちなんて全く慮ることがない言葉の数々が飛んできました。

この時、僕は確信しました。

「親は、家族は、自分を愛していないのだ」と。

そこから紆余曲折あり、今に至ります。

どんな弊害がある?

居場所が感じられない

家にしろ、学校にしろ、職場にしろ、本当の自分の居場所というものがわかりません。なので僕は家なんて持たなくても生きていけると思っていますし、職場の雰囲気は正直言って嫌いです。。。

本当の意味で信頼というものがわからないので、信頼が前提とされる「仲間と共存すること」ができないのです。

快楽に依存する

幸福ホルモンと呼ばれる脳内物質には、大雑把に、日光や軽い運動で分泌されるセロトニン。食事、ゲーム、自慰などなど、快楽のジャンクフードとも呼ばれるほど簡単に分泌されるドーパミン。人、生き物と触れあい、愛情を感じることで分泌されるオキシトシンがあります。

ロマンがない話ではありますが、人間の「幸福」というものはこれら三種で構成されているに等しいのです。

では、人生が幸福になるにはどの幸福ホルモンを優先的に獲得していくべきなのか。

答えは愛情ホルモンと言われる、オキシトシンになります。

依存性が低く、得られる幸福量が大きく、コストがかからず、体への悪影響もない。

しかし、オキシトシンを得た経験がない、もしくは得ることができない愛着障害の方は、消去法的に残り二つから選ぶことになります。

それが快楽のジャンクフードと呼ばれるドーパミンとなってしまうのです。

ドーパミンは依存性があり、脳を萎縮させてしまうため、過剰に摂取するのはよろしくないと言われています。

そのため、愛情不足を紛らわすために暴飲暴食をしたり、ゲーム廃人になったり、自慰行為に耽ったり、ほどほどならばいいのですが、オキシトシンを得られにくいが故に、このようなジャンクフードに依存してしまいがちなのです。

かくいう僕も、ドーパミン中毒一歩手前で生きているのです。

人を信頼できない

愛着障害の方は、生物という存在において最も信頼できると言っても過言ではない、親を信頼することができません。

そのため必然的に、その親への信頼のもとに位置する他人への信頼も失われてしまうのです。

当たり前ですが、世の中は信頼で回っており、仲間も信頼がなければ作れないため、人を信頼しなければ孤独なままです。

そんな人間の仕組みに適合することができないのですから、辛いのは当たり前でしょう。

僕はこの仕組みを知っているので、人にはなるべく信用するよう心がけています。誰だって、信頼してくれる人を信頼したいものです。

嫌われるのを過度に恐れる

愛着障害の方は嫌われる痛みを知っているので、それを避けようと躍起になります。この傾向は「回避性」なんて呼ばれたりもします。

また、これは僕自身強く思っており、僕は他人から嫌われるのがひどく怖いです。そのため、人に優しく、人を信頼し、自分が嫌われないよう、傷つかないよう取り繕っているのです。

小さい頃からすぐに他人に手を差し伸べるのは、孤独になりたくないが故のエゴだということです。

と、変な言い方をしてしまいましたが、一般的に見れば「他人に優しい良い人」だと思われるので全然良いと思います。優しい人はみんな性格悪いみたいな言い方になったら意味わかんないですからね。

問題は、過度に恐れるが故にメンヘラ状態となることです。

メンヘラであること自体は本人に非はなく、どうしようもないので良いんです。問題はその状態に入るかどうかと言う話です。

特に「自分のこと嫌い?」と聞いてしまうのは良くないです。

たまに聞くのはまだ良いのです。ただ、しょっちゅう聞くようだと相手にとって非常にプレッシャーがかかります。よくよく考えたら、自分と一緒に居てくれてるんだから嫌いなわけありません。どんなに悪くても普通以上です。

過去のトラウマ、悲しい記憶からこのような思考回路になっているに過ぎないのです。

不安になってしまう気持ちはわかりますし、僕自身もよく不安になるのでわかります。

でも、そんな時は「これは脳が変な命令を出しているだけなんだ!」と考えて自分を抑え込みます。

大丈夫です、ちょっとやそっとのことで相手を嫌いになる人なんていません。しょうもないことで嫌いだなんだのいう人がいたら、器の小さい人間だったというだけです。

人に依存してしまう

愛着障害の方は、友人や恋人など、信頼できそうな人を見つけると過度に依存してしまう傾向があります。

なぜならば、今まで愛をもらえなかったが故に「この人なら自分のことをわかってくれる!愛してくれる!」と思って、手放したくない気持ちが強くなってしまうからです。

この依存度合いが並であれば良い関係が築けるのですが、あまりにも過度な依存になるとやばいです。

過度な依存というのは、先ほどちらっと挙げたメンヘラの話のように「私たち、友達だよね。友達なら一緒に死んでくれるよね?」のような、そんなことを愛着障害の方は言いかねないのです。

現に僕も、信頼してる人のためだったら例え四肢が引き裂かれようと構わないと思うタイプではあります。依存したいと思うタイプでもあります。ただ、依存しすぎると相手に迷惑がかかってしまうという…非常に難しいラインだと思います。

ただ、この依存方法によっては愛着障害の寛解に繋がる可能性があります。これに関しては後述します。

愛着障害の対処法

愛着障害の対処法は、あることにはあります。

それは、安全基地を見つけること。それっぽい言い方をするのであれば、一緒に人生を歩んでくれる人を探すことです。

この歩んでくれる人というのは、友人でも恋人でも構いませんが、精神分析学の観点からは恋人が良いとされています。(もちろん同性の恋人でも可)

愛着障害の方は、幼少期、どこにも居場所がなかった故に、常に居場所を求め彷徨い続けています。安心できる居場所を見つけ生活していれば、自ずと心は癒されるらしいです。そしてその安全基地を得るためには、パートナーを見つける必要があります。

この年になると、周りから「将来は結婚したいの?」と聞かれます。僕は迷いなく「YES」と答えます。

なぜならそれが、自分が最も幸せになれる道だと知っているからです。

そのため、周りにどんなに否定されたとて僕は諦めたくないです。

何も僕は結婚して既婚者アピールをしたいだとか、子供がたくさん欲しいとか、そんなことを言いたいのではありません。

僕が結婚したい(結婚に限らずパートナーが欲しい)と思っている理由は、自分が愛されたいからです。

これを見て「不届きなやつだな」「傲慢なやつだな」と思う方もいることでしょう。

しかし、愛着障害の人間は、愛をもらわなければ一生苦しい思いをして生きていかなくてはなりません。僕の幸せには、歩みを共にしてくれるパートナーが必須なのです。

私事になりますが、先日、彼女を傷つけてしまいました。彼女も、僕同様に愛着障害を持っています。

意図的に傷つけたのでは勿論なく、自分の中では些細な冗談のつもりだったのですが、自分が他人から信頼されないことが、裏切りが、どれだけ痛いかわかっているのに、それを察知できず、あろうことか傷つけてしまいました。

言い訳がましいですが、僕自身ASD傾向ですし、人一倍繊細な彼女ですし、厳密に言えば、進化生物学の視点からは絶対に避けられない道であるため予期はしたのですが、こうして大切な人を傷つけてしまうことがどれほど苦しいことかを身をもって体感しました。

守りたい存在であるはずの彼女の傷を自ら抉るようなことをしてしまったのは、下劣で非道な行いであり、本当に反省しています。

でも、僕には彼女が必要なのです。それは先ほど言った僕の「愛されて幸せになりたい」というエゴによるものです。

しかし一方、彼女も愛着障害を抱えています。愛着障害の人間同士がお互い寄り添って心の傷を癒すことのすゝめは精神科医の口からも語られています。

つまり、この関係性はお互いにとって非常にwin-winであり、ロマンのない言い方にはなってしまいますが、これが最善のルートなのです。

ただ、共依存には注意が必要です。愛着障害ですし、大好きな相手だからこそ、どっぷり依存したいのはわかります。僕だってそうです。

でも、それでは人間は堕落してしまいます。

そこのところ、彼女も気付いてくれたようで嬉しい限りです。女性脳で感情を優先してしまいがちな故、僕より大変なはずなのに。やっぱり最高だなぁと改めて思いました。

パートナーが見つからない場合

僕自身、経験なんてものはろくにないのでなんとも言えないのですが、兎にも角にも「優しい心」を持っておけばまず間違い無いと思われます。

愛着障害の人間は、愛着障害同士で仲睦まじく過ごすのが好ましいです。

しかし、優しさを持っていない人間であればパートナーを傷つけてしまう可能性が高くなります。

それが俗にいう毒親というものになり、また負の連鎖が続いていってしまう…

それを防ぐためにも、やはり優しい心は持っておくべきだと思われます。

それを貫き通していれば、いつかは絶対良いパートナーに巡り合えるはずです。能力、年収、容姿…そんなの関係ありません。

ここは一つ、僕に騙されて見てください。きっと、世界の変化に気付くはずです。

あ〜ハグされたい