【体験談】高校時代三年間ぼっちだった男が、ぼっちについて語ります

【体験談】高校時代三年間ぼっちだった男が、ぼっちについて語ります

レイジです。

世の中にはぼっちと呼ばれる方が一定数います。

ぼっちと言うのは、ひとりぼっちの略称で、主に社会において友達がいない人のことを指して使われます。

そしてこの僕も、高校三年間友達が0人だったエリートぼっちです。

今回はそんなぼっちに関するお話しをしていきたいと思います。

ぼっちになりやすい人の特徴

ぼっちになりやすい人ですが、一言で言ってしまえば、変わり者な人です。

当たり前ですが、この世には普通の人と普通でない人がおり、普通の人の方が圧倒的に社会に多いです。

ちなみにここで述べる普通の人というのは、思考が全体を通して多数派寄りである人のことを指しています。

例えば、大学は絶対に出ておくべきだとか、友達は多い方が良いだとか、どんな会社にも三年は勤めておくべきだとかそんな感じの一般的な概念を持ってる人たちが普通の人たちです。

逆に、大学も行かず仕事もせず生活保護を受けて暮らしたいとか言っている人は普通ではないです。変わり者と言えるでしょう。(もしかしたら皆言わないだけで心の奥底では思っているのかもしれません)

変わり者は社会で迫害されがちです。

それは人間の本能に基づくもので、人間は自分達とは異なった行動をする仲間を排除するようにして進化してきました。

そして、変わり者を排除し、似たような人間で固まります。

人間は似たもの同士のグループに所属することを望みます。これが帰属意識と呼ばれるものです。

周りがしていることに合わせたがる、仲間から外れてはいけないと思い込んでしまう同調圧力がわかりやすい例ですね。

ちなみに「自分は変わり者ではないか?」と思う人の90%は変わり者で、変わり者に憧れる人はほぼ100%変わり者だと僕は勝手に思っています。あと、学校でいじめられた経験がある人間も変わり者です。

ぼっちを恐れない人はぼっちになります。

逆に、ぼっちを極端に恐れる人はぼっちになりません。

どういうことか説明します。

まず、ぼっちを恐れない人の場合です。

簡単な話で、ぼっちを恐れていない人は、ぼっちにならないように対策を打つ事はありません。

逆にぼっちを極端に恐れている人は、自分が絶対にぼっちにならないように、念には念を入れて対策を打っておきます。

なので、ぼっちの対策をロクに打っていない人はぼっちになり、ぼっちの対策をこれでもか、としている人はぼっちになりません。

プリティー心理ズム ぼっちになるのはどういう人か

ぼっちのメリット、デメリット

人生の敗北者と思われがちなぼっちですが、実はメリットもあったりします。

まず、ぼっちは一人の時間が多いです。

「一人の時間が多い?だからどうした?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、この一人の時間というのは、使いようによっては自分にとても大きな効能をもたらします。

一人の時間は、はっきり言って暇です。

その暇な時間を勉強や趣味に充てたならば、それらの能力、知識、スキルは成長し、自分の糧となることでしょう。

リア充が友達と遊んでいる時間を勉強に全振りしたのならば、脅威の逸材が生まれるなんてこともあり得ます。

また、人生の大半の時間は一人の時間です。一人暮らしの人に限らず、家族がいる人も多くの時間を家族と共有しているように見えて、実際は一人の時間の方がかなり多いと思われます。

例えば、ゲームや漫画、アニメを見ている時間、寝ている時間、これらは家族とは関わりがない時間です。(一緒に遊ぶのは別)

この一人の時間に慣れておく、また、一人の時間を楽しむ方法を見つけるというものは非常に重要です。

俗にいうメンヘラの方や、人に依存しきっている人は、常に誰かと一緒にいたがります。

これは人間の本能のようなものなので、仕方ないのかもしれませんが、あまりにも重度になるとはっきり言って生き辛いと言えるでしょう。

逆に、そのようなものに依存しない、一人に慣れている人は、比較的病むことが少ないように思えます。

しかし、メリットがあるとはいえ、それ以上にデメリットがなかなかきついです。

ぼっちのデメリットを挙げていくと、孤独、いじめ(迫害)、世間体などです。

ぼっちならば、孤独は言うまでもないですね。人間は誰かと一緒にいたがる生き物です。

自分も高校生活三年間ぼっちで、最初の頃は「ぼっちの居心地の悪さなんて克服できるやろw」とか思っていましたが、普通に無理でしたね^^;

それもそのはず、先ほども少し述べたように、人間は本能で他人を求めてしまう生き物なのですから。

ただ、孤独への耐性はついたと思います。

孤独に耐性がない方は、生活保護で一人暮らしとか無理そうだな〜なんて思ったりします。まぁ、ペットを飼えばいい話なんですけどね。

次にいじめですが、これもなかなかきついです。

ぼっちは変わり者なので、人間は本能的にいじめたくなってしまいます。

いじめによって少年少女が自殺してしまうようなニュース、一度くらいは見たことあるかと思います。

メンタルが強い人だったらある程度のいじめだったらスルーできると思いますが、そうでない場合は心身ともにボロボロになります。

たまに「いじめで死ぬ度胸あるんだったらやり返せ」とか言う人がいますが、洗脳されていたり、視野が狭くなっているので基本的には無理だと思われます。僕はいじめをされて殴り返したタイプの人間なので珍しいのかもしれません。

ちなみに人間がいじめをする理由は、仲間ではないものを迫害する以外にも、いじめを他者と共同で行うことにより仲間意識をより一層高めるという理由もあったりします。お友達大好き人間は友達を作るためなら手段を選ばないのです。

そして、先ほど「時間があることは使い道によってはメリット」と言うお話をしましたが、これは人によっては逆に働きます。

人間は暇すぎると、哲学的なことを考えてしまいます。

自分はいつ死ぬのか?幸福とはなんなのか?本当にこのままの生活でいいのか?などなど。

こんな変なことを長時間考えていると、人間は病んでしまいます。

ただ、誰かと一緒にいれば、会話や共同作業に夢中になるため、哲学のお話でもしてない限りこのようなことはなかなか起こり得ません。

なので、ぼっちは何かに夢中になる必要があると言えるでしょう。

ホリエモンこと堀江貴文さんも「暇は悪」と述べています。

暇を克服するためには、何かに夢中になる、ハマることが重要です。

漫画、アニメ、ゲーム、なんでもいいです。何かに夢中になればそれでオッケーです。

ぼっちからの脱却方法

どんな人間でも、ぼっちはなるべく避けたいはずです。

なので、誰でも簡単にぼっちから脱出する方法を授けたいと思います。

…と言いたいところですが、はっきり言って無理な人は無理です。

なぜならば、ぼっちは変わり者であり、合わない人とはとことん合わないからです。

例えば、ぼっち属性のある人間が、気の合わない人と一緒にいたとしたのならば、周りから見ればぼっちではないでしょう。

しかし、それでも相手が自分とは気の合わない人間である以上、自分の心は相手から目を逸らしているため、ぼっちといえます。

言うなれば、ぼっちは環境に大きく左右されます。

中学では友達がある程度いたけれども、高校、大学では全く友達がいないと言う人間も珍しくはありません。

なので、ぼっちを脱出する一番簡単な方法は、自分と似たような変わり者を見つけると言うことになります。

しかし、運ゲーであることには変わり無いため、どうしても人によってはモチベが削がれると思います。

そのため、個人的におすすめの方法は、性格の良い人間になることです。

性格が良い人間は、たとえ変わり者でも人が集まり、その中には一般人も含まれます。

例えば、ユーモアを身につける、人や動物に優しくする、知的な雰囲気を出す、など、プラスの魅力があると理想です。

しかし、性格が良い人間になる上で最も大事なことは、マイナスの魅力を消すことにあります。

このご時世、どんなに聖人でも一つでも悪いことをしていることが発覚したのならば、そこから炎上して真っ逆さまと言うのも珍しくないです。

そのため、プラスを伸ばすことも大切ですが、まずはマイナスを消すことを心がけましょう。

マイナスの魅力というのは、人の悪口を言う、暴力に走りがち、感情的、アドバイスを無視する、傲慢、人を見下す、などです。

これらをやらかさないように意識するだけで、かなり人間として成長できると僕は考えております。

カリスマ性がある人間になれとまでは言いませんが、多少意識することくらいならできるはずです。

また、人に好かれるためにはどう動くべきかと言うことを具体的に学びたい方は、こちらの本がおすすめです。多分図書館にあります。

正直、これを読んでいる人と読んでいない人では、人間関係の理解において大きなアドバンテージがあると言っても過言ではないと思います。

というか、こんな回りくどいことしなくとも、ぼっちを脱出したいなら周りに合わせればいいだけの話です。

ただ、そんなことしてまで人と戯れる必要はないです。

なぜならば、人と関わるのは自分が楽しく過ごすため、自分の人生を豊かにするためだからです。

この世にはキョロ充と呼ばれる人間がいます。

彼らは、ぼっちを恐れるがあまり、大して一緒にいて楽しくもない人間と駄弁っています。

僕は中学、高校とそのような人間を見て、それでいいのかなぁと思ってました。

なので、実際に話しかけてみて「なんで無理に人に合わせようとしてるの?」

と聞いたこともありますが、大体苦笑いで誤魔化されるか逆ギレしてくるかでした。

キョロキョロして人に合わせるくらいだったら、ぼっちを突き通した方が断然マシだと思うのですけどね。

常にキョロキョロと人目を気にしており、その時々の流行や周囲の人間に合わせることで自分を「リア充」だと思い続ける者を意味する俗語。主に大学生に多いとされる。そもそも「リア充」とは「リアル(現実)の生活が充実している」者を指し、必死に「リア充」を演じているという意味なども含まれた言葉である。

weblio辞書

僕が高校ぼっちだった頃の話

*これは単純に僕の自分語りなので、興味ない方はスルーしてください。

冒頭でもお話ししたように、僕は高校時代、自他ともに認めるぼっちでした。

まず、なぜぼっちになったのかですが、高校の入学式で遅刻したところからぼっちストーリーは始まります。遅刻した理由は眠かったからです。

教室に入るなり、僕は無言で席につきました。周りの人たちは凄い顔してましたね。まるで異常者を見るような目でした。

そこから入学式が終わり、周りを見渡してみるのですが、僕が最初に感じたことがあります。

「この人たち、全員つまらないな」と。

はっきり言って、僕はつまらない人間に興味はありません。浅い人間というか、周りに流されているだけというか、クラスのほとんどがそう見えました。厨二病乙

そして、いつかは面白い人間が現れるだろうと思っていたのですが、残念ながらなかなか現れることはありませんでした。

僕は中学生の頃も似たような感じで、中一の半年くらいまでは友達がいませんでした。小学校からの同級生はどうしたって話なのですが、僕、転校生なのでそんなものはいません。

しかし、中一の終わり頃に本当に面白い人を見つけたんです。バリバリ体育会系なのに二次元オタクという、、、僕はそれ以降、その人と中学生活が終わるまで行動を共にし、無事ぼっちを免れました。

それどころか、その方は影の人気者だったので、人気に肖るような形で、自然と僕の周りにもある程度の人が集まるようになったりしました。

何を言いたいのかというと、中学生の頃は似たような変人に巡り合えたため、人間関係に恵まれていたのです。

しかし、高校生活の場合、高校一年の頃は面白い人とは巡り合えず、二年の半ばあたりでやっと面白い人と巡り合えたのです。

二年半ばに突入するまではかなりキツかったです。

高校でぼっちだった僕は、授業が終わるとトイレに駆け込み、アニメを見たりTwitterを見るという生活をしていました。

たまに、ヤンキーの方がドアをノックしてきてぶるぶる震えていました、、、

しかも、淫夢にもハマり始めます。ぼっちで淫夢キッズとか救いようがありません。

いきなりですが、ぼっちは笑うことができません。

クラスの連中が面白い事を口走ったりすると、僕は笑いを漏らしてしまうのですが、笑っているところを誰かに見られてしまうと「えっ!?いまレイジ君笑った!?笑ったよね!?😁」とめちゃくちゃウザ絡みされるので、笑いは必死に堪えて「クックク…クハッ…」みたいな感じでなんか死にそうな人みたいになってました。授業の余興で教師がM1流した時とかめちゃくちゃ大変でした、、、

最初のうちは、周りの目を気にしていました。なぜかというと、直に悪口を言われるようなことがあったからです。

僕は馬鹿なので、言われて初めて自分がおかしいことに気付くタイプです。

遅刻して皆がこちらに注目してきた時も、僕自身は「まぁ多少は目立つかな」くらいの感覚でしたが、あれはなかなかの悪印象だったようです。

高校時代というものは、良くも悪くも人の目線を気にしてしまうお年頃です。

また、涼宮ハルヒの憂鬱みたいな生活が送れると思っていた時期が僕にもありましたが、普通に無理でした。

ただ、休み時間にトイレでTwitterを見るような生活は、高2あたりで終わります。

なぜかというと、高2からは、あまり人の目線や悪口が気にならなくなってきたからです。

つまり、視野が広くなり、ぼっちに慣れてきたのです。

高二では主に小説を読んで時間を使っていました。ハマっていたのが化物語と空の境界です。

どちらもラノベにしてはそこそこ難解で、ちょうどいい感じに高校生向けという感じで、なおかつ内容量も半端なかったのでかなり時間を潰せました。

特に、物語シリーズの阿良々木君は僕に刺さりましたね。同じぼっちキャラなので。

また「友達は作らない。人間強度が下がるから」というセリフに惹かれました。かっくいぃ〜^まぁ僕の場合作らないんじゃなくて作れないんですけどね、初見さん。

ぼっちでは「ペアを作って〜」と教師に言われても、組んでくれる生徒はいませんし、僕の場合、授業中最前列で内職をしたり眠りこけてるような人間で、教師からも嫌われていたため、ぼっち最後の頼り綱である教師と組むという行為すら許されませんでした。

組んでもらえない僕は、周りがワイワイしてる中ひたすらその場に立ち尽くし、ただ時間が過ぎることを待ちます。立っている間は、ひたすら脳内で好きなアニメの推しカップリングを想像します。うーん、これはキモい!w

文化祭や体育祭なんかのイベントは、ぼっちでは楽しめないため、行くだけ行って出席日数を稼いで、校門の柵を飛び越えて逃走すると言ったことをよくやっていました。

あまりにも異常な行動をしでかすため、教師に個人用の携帯電話番号を教えてもらってたりしました(半ば強制)。僕が行方不明になったり、悪いことをすると電話がかかってきます。

ここら辺から学年中に僕の存在は知られ始め、最終的には学校全体に知られるようになってきます。

こんな感じで、高二半ばまでは地獄も地獄だったわけですが、先ほど少し述べたように、ここら辺で面白い人に巡り合えました。

ただ、僕は「ここまできたら卒業までぼっちでいて、高校時代友達0の称号が欲しい」という謎の拘りを持っていたので、自ら関わるようなことはしませんでした。

その面白い人間というのは、謎の美少女だったり、謎のイケメンだったりします。

なぜキモオタである僕が少女漫画の人間みたいなビジュアルをした人たちに絡まれていたのかは、いまだによくわかっていません。

今考えると、なかなか勿体無いことをしたと思います。美少女の方はメンヘラだったのでアレでしたが、イケメンの方は普通に天才の素質があったと思います。

そのイケメンがどんな人間だったのかというと、スポーツが得意で、暇があれば一日中本を読んでいる割には勉強ができず、授業中は基本漫画を読み、BL好きで、厨二病で、押し寄せてくる女の子の好意をバッサリ切り捨て、しかし根は優しいというなかなか頭がおかしい人間でした。

僕はこのイケメンと高校二年の半ばあたりで巡り合い、司書に浸けいることによって、共に図書室を占領するようになります。

お互い大して会話は交わしませんでしたが、高三辺りからは、昼休みは図書室で落ち合うというのが暗黙のルールになっていました。

あと、通学でバスに乗っている際、僕はすぐに寝落ちして単語帳を落っことすため、それを支えてくれてたり(今思い返すと謎シチュすぎる)、僕はすぐに校内で頭のおかしいことをしでかすため、それを止めてくれてたりしました。

そう考えると、もしかしたら僕の場合、完全なるぼっちではなかったのかもしれません。

しかし、先ほども述べたように、「ここまできたらぼっちを突き通したい」と思っていた僕は、自ら関係を切り捨てるような行動ばかりしていました。

修学旅行も同じ班でしたが結局行きませんでしたし、一緒に本屋やゲーセンに遊びに行った時も早く帰りたいアピールをしたりしてました。

今、彼はパン工場で働いているらしいですが、正直かなり勿体無いと思います。

まぁ、きち○い同士は惹かれ会うのでそのうち再開するでしょうから、その時にでも話を持ちかけてみたいと思います。

結局、高校では特に彼女ができるとか親友ができるとかそんなイベントもなく、普通に卒業しました。

卒業式では誰にも卒アルにメッセージを書いてもらうこともなく、お別れの挨拶を交わすでもなく、真っ先に学校を後にしました。

あの時の「ついに、終わったんだな」感は未だに覚えています。

結局、僕は青春を謳歌するわけでもなんでもなく、田舎の学校にここ数年で一番イカれたやつという歴史を刻んだだけでした。

ぼっちは全然悪くない

ここまで読んでいただければわかっていただけたことかと思いますが、ぼっちはただただ変わり者なだけです。

世間一般では、他人と合わせることが一番で、個性など不要で、ぼっちは恥ずかしいものと考えられています。

僕も、最初のうちはそう思っていましたが、今は違います。

ぼっちは性格が悪い人間が多い、ひねくれた人間が多いと思われがちですが、全員が全員そうとは限りません。

むしろ、周りに合わせるためには手段を選ばないリア充の方が性悪まであります。

僕もぼっちの頃、性悪人間だと思われていた節がありましたが、実際話してみると思っていたのと全然違くて、ただの頭のイカれたやつだったという声が多いです。

頭がイカれていることには変わりはありませんが、少なくとも悪い奴ではなさそうと思われているということですね。

このように、人間は第一印象や噂だけで決められてしまうものです。

また、今現在学生や社会人で、周りから孤立し悩んでいる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際はそんな気にする必要はありません。

むしろ、捉えようによっては断然メリットになり得ます。

ぼっちになるということは、変わり者であるということ。つまり、大きな個性があります。

これからの時代、AIが普遍的な仕事を軒並み奪い去っていくと予想されますので、個性に勝るものはない時代が到来すると言えます。

あと、これは完全に僕の偏見なのですが、ぼっちや変わり者は何かしらに没頭しているイメージがあります。

上記で「ぼっちは何かに夢中になるべき」と述べましたが、そもそもぼっちは勝手に何かにハマると思ってます。

ハマれる人間はとても強いです。僕もハマった事はとことんやるタイプで、現在はブログにハマっています。

そして、そのブログが今ではそれなりの人に見てもらえる代物と化していますし、文章能力も上がってきたように感じられます。

また、数々の成功者もハマることが最強ということを述べています。

面白いものがない人は感度が低い。これからは“遊び尽くした者”だけが成功する人生を楽しんで生きるには、そして「やりたいこと」を仕事につなげるには、とにかく遊び尽くすことだ。

好きなことを好きなだけ、とにかく夢中になって遊び尽くす。そうして生きていると、その先にエキサイティングな体験や仕事が待っているのだ。

意外に思われるかもしれないが、僕はこれまでお金を儲けようと思って遊んだことがない

ただ、コンピューターにハマり、インターネットにハマり、ビジネスにハマったのである。徹底的に没頭し、夢中になって遊び尽くした。

なぜなら、楽しかったからだ。だからこそ、多くの遊びを仕事につなげることができた。

堀江貴文 「遊ぶが勝ち!」より

鉄オタなんかも馬鹿にされがちですが、僕としては素晴らしいと思います。ただ、民度の悪さはなんとかしましょう。

そして、別に現在が孤立しているからといって、未来永劫孤立しているとは限りません。

どこかしらで、自分からアクションを起こすなり、環境を変えるなりすれば、きっといつかはぼっちから脱却できることでしょう。

やはり、ぼっちや変わり者は成功しやすく、また、人の上に立つ可能性があるため、人格者であるべきだな〜と常々思います。

まとめ

以上です。ぼっちについて長々と語ってしまいました。

僕はぼっちでしたが、今ではぼっちではないと思っています。

生活保護を受け一人暮らしをして、社会のレールからは外れていますが、こうしてブログを見にきてくださるわずかな方がいるだけで、社会との一体感を感じられますからね。良い時代になったものです。

正直、ぼっちは運ゲーみたいな節は否めないですし、視野が狭い人間ほどぼっちを過剰に気にしているというのもあります。歳を重ねるにつれ、ぼっちとかそんなのどうでも良くなると思いますね。

また、ぼっちであるという事は、将来的に話のネタになります。ぼっちとかぼっちじゃないとか、それくらいの感覚で良いんじゃないでしょうか。

ぼっちなんて、世の中に腐るほどいます。

現に、このブログを始めるきっかけになった、僕が参考にしているブロガーの方も大学時代ぼっちだったらしいです。

高校時代ぼっちだった僕は、自分と同じような仲間がいることを知り救われました。

これからはむしろ、ぼっちがステータスになっていくのではないでしょうか。そんなラノベみたいな展開に期待してしまう自分がいます。

そして、高校時代にプリティーリズムとキングオブプリズムに出会えたことに感謝ですね。(隙あらば宣伝)

なんてくだらない記事を書いてある間に早朝ですわ。あーあ、ブロガーの辛いところね、これ(笑)

ここまで読んでいただきありがとうございました(◝(‘ω’)◟ ))(( ◝(‘ω’)◜ ))